糸満市にも王子様はいた!?潮平の今帰仁王子の秘密

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皆さん潮平の今帰仁王子って知ってます?

通常、沖縄での王子というと、首里城に住んでいた琉球王朝の王子様を想像しますよね?

しかし糸満市にも王子様が存在していたそうです。

今回その事実を知ったので、ちょっとご紹介。

何なの今帰仁王子の墓って??

いつもの如くGPSゲームで遊んでいる時に気づいたのですが、糸満市潮平には今帰仁王子墓とうポイントがあります。

「なんで今帰仁の王子様の墓があるんだろう?」

ほんと、超不思議に思いました。

門中墓が立派すぎる

さて今帰仁王子の墓ですが、実物がコチラ。

門中墓(一族のお墓)のそばにあるんですよね

流石にヨソサマのお墓に入る無礼は駄目なので遠くから撮影

凄いな。改修記念の石碑もあるんですよ?

最近だと2015年に改築されたようです。

門中墓の大きさから考慮するに凄い一門である事は推測できます。

更にコンクリ流し込み製の墓だと費用もそれなりにかかりますよね?

やっぱ王子様がいたんだろうなと推測。

(最後は一礼して立ち去りました。撮影ありがとうございました)

FMたまんのサイトで説明があった!

「なんだろう?今帰仁王子っていたの?」本当に疑問だったので、Google先生で検索してみるとFMたまんのサイトにて情報を発見しました。

今から五八八年前(一四一六年)当時の中山(首里)城主尚巴志は三山統一の野望を持ち、北山城を攻め滅ぼした。当時の北山城主は樊安知王(ハンアンチ)であった。武士頭の本部大腹(ムトュブティーハラ)の裏切りによって北山城は滅んでしまった。その裏切りに怒った樊安知王は本部大腹を斬った。あまりにも悔しいので、チョーカネマルという刀で守り神であったテンチジアマチジを切り、切腹した。

北山城主の次男志慶真(シケマ)王子は湧川大主に助けられて長女の真亜佳度金(マカトガニ)と(湧川大主と家臣など含め約十名で)海を渡って逃げた。糸満の元ベスト電器のあるところに当時岩があり、そこに流れ着いた。南山との関係がうまくいっていたため、助けを求めてここにきたのだろう。

南山に助けられ、最初は字兼城のロンドンガマに身を隠した。落ち着いた頃、奥間城に家を建て住んだ。その後潮平に移動。そこでは海が近かったため、塩を作り生計を立てた。そのため、その地を塩平と呼んだ。文献などをみると、一七〇〇年頃を前後に潮平になっている。しかし、どうして変わったのかは不明。

うーん。。これは方言も入って判りづらい。
簡単に翻訳すると以下の内容でしょうか?

沖縄は昔3つに別れていた(北山・中山・南山)

中山王:よっしゃ沖縄全域統一するぜー!手始めに北山から攻める。

北山王:まじか!中山王が攻めて来てやられたし。部下にも裏切られたつらい。

北山王の次男:やべー!仲の良い南山王の所に逃げっろー\(^o^)/

南山王:よく逃げてきたね。兼城に隠れてね。

北山王の次男:ふむ。落ち着いたな。海の見える所に移動して仕事すっか。塩作ろうぜ

超意訳すぎる!
でも大体合ってるはず

なぜ”今帰仁王子”なの?

ここでもう一つ疑問が出てくるはずです。

北山の王子様ってのはわかった。じゃぁなぜ今帰仁なの?

通常ですと名護あたりが栄えているし、名護城もあるので北山王は名護あたりに住んでいそうですが、昔は今帰仁城に本拠を構えていたようです。

今帰仁城確かにかなり立派なんですよね。

石を敷き詰めた道路とかも凄い。

こんなに立派な城なのに、中山王に負けちゃったのは、やはり部下の裏切りがつらたん。

沖縄県国頭郡今帰仁村にある世界遺産、今帰仁城跡を歩いてきました。13世紀ごろ、沖縄本島において北部地域(やんばる)を支配した「北山」、中部地域を支配した「中山」、南部地域を支配した「南山」の三つの勢力が争った三山鼎立の時代がありました。今帰仁城は三山時代、

今帰仁から糸満に逃げてきた王子様だから今帰仁王子なんすねφ(..)メモメモ

糸満市潮平にありますよ

たぶん某GPSゲームをしていなければ、絶対にこの場所知ること無かったと思う。

遊びながら地域の歴史なども学べるってのが素晴らしいですな!

まさか今帰仁から糸満まで船で逃げてくるって大変だろうな。

観光スポットとしては訪問しづらいですが、道沿いからは見えます。
他人様のお墓となっておりますので、皆様節度ある対応をよろしくお願いします。

以上、糸満市潮平の今帰仁王子墓でした。

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